世界的な指揮者で文化勲章受章者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが2月6日、東京都内の自宅で心不全のため死去されました。
88歳だったということです。
私が初めて小澤征爾さんのことを知ったのは、高校の音楽の授業の時でした。
誰かの代わりに急に指揮をすることになって、オーケストラの人が、試そうとして、わざと違う音を出したりしても、それを言い当てて、信頼を得て、大成功を収めた
というような話だったと思います。
すごい方がいらっしゃるのだなぁと衝撃を受けて、今でも覚えています。
小澤征爾さんに追悼の想いを込めて、記事を書かせていただきます。
【訃報】小澤征爾 逝去について 指揮者小澤征爾は、2月6日都内自宅にて安らかに永眠いたしました。享年88歳。死因は心不全でした。
— 小澤征爾 Seiji Ozawa (@seijiozawa_info) February 9, 2024
故人の意思により、葬儀は近親者のみで執り行いました。
故人が生前賜りましたご厚情に深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせいたします。
VEROZA Japan pic.twitter.com/KLKVTlnZNZ
この記事を読んで分かること
・小澤征爾さんが死亡された理由
・小澤征爾さんが「世界の小澤」になった経緯
この記事を書いた人
5人の息子を育てながら、中学校の数学の教員を30年間続けました。
退職後、2023年3月に64歳で、ブログを始めようと思いたち、4月10日から公開し始めました。
学生時代は、ピアノ、バイオリン、お琴など音楽系の習い事をしていましたが、現在は、40代から始めた社交ダンス、退職してから始めたヨガなど、身体を動かすことにハマっています。夫と2人暮らし。
母と義母が健在で、時々介護のようなことをしています。
小澤征爾さんが死亡された理由
小澤征爾さんが死亡された理由は心不全
亡くなられた理由については、どの報道機関も「心不全」となっています。
心不全は、病気の名前ではありません。心臓になんらかの異常があり、機能低下によって、体に血液が行き渡らなくなった状態を言います。血液が行き渡らなくなると、内臓を含めた組織が徐々に 壊死 して死に至ります。心不全に至るまでには、先に心筋 梗塞 、弁膜症、心筋症などの心臓病があるわけです。つまり、心機能の低下を言う「心不全」の裏側には、さまざまな本当の死因( 原 死因)があるわけです。心不全も呼吸不全も直接の死因ではありますが、その人の死のイメージをあいまいにする効果があるかもしれません。「あの方、僕の患者さんで、前立腺がんが転移して亡くなったけど、新聞を見たら死因は心不全になっていた」と知り合いの医師が話していました。死因が「心不全」とされるか、「前立腺がん」とされるかで、死のイメージが違ってはこないでしょうか。心不全は死因として使いやすいのか、肺がんなどの末期で死亡したケースで使われることがあります。つまり、心機能の低下を言う「心不全」の裏側には、さまざまな本当の死因( 原 死因)があるわけです。 引用元:リングドクター・富家孝の「死を想え」
というわけで、心不全とは、状態であり、本当の死因とは言えないかもしれませんが、それ以上の報道はされていないので、本当の死因はわかりません。
小澤征爾さんの病歴
小澤征爾さんは、病気と闘うことも多かったようです。
2006年に帯状疱疹(たいじょうほうしん)で一時活動を休止したことがあります。
2010年1月に食道がんと診断されて、食道全摘出手術を受けられました。
当時、小澤征爾さんは都内で記者会見を行い、次のように話されました。
毎年末に受けている人間ドックで食道がんが見つかりました。飲んだり食べたりしても大丈夫で、検査しなくては分からなかった。皆さんにも人間ドックをお勧めします
この会見は、ご本人が自身の口で説明したいと希望して行われました。
その後リハビリに励み、徐々に本来の指揮活動に復帰されていました。
2010年の12月から、2012年の1月にかけて、3度肺炎を発症しました。
その後2013年2月末まで1年間、指揮活動を中止すると発表しました。
2013年8月に指揮活動を再開しましたが、2015年7月30日に予定していたコンサートを体調不良で欠席されたようです。
小澤征爾さんが「世界の小澤」になった経緯
生まれてから、世界的指揮者に才能を認められるまで
小澤征爾さんは、1935年、旧満州奉天(現中国・瀋陽)に生まれました。
幼少からピアノを始めましたが、ラグビーのけがでピアニストを断念しました。
桐朋学園短大指揮科で指揮者の、斎藤秀雄氏に指揮の基礎を学びました。
桐朋短大を卒業後に渡仏し、1959年ブザンソン国際青年指揮者コンクールで優勝しました。
その後、世界的な指揮者に才能を認められて指導を受けました。
名指揮者のカラヤン氏に師事、さらに指揮者・作曲家のバーンスタイン氏に招かれ、米ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就きました。
米シカゴ交響楽団、カナダ・トロント交響楽団など著名なオーケストラに次々と招かれるようになりました。
N響事件
1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者として招かれて、活動を開始しますが、N響と小澤征爾さんの間に感情的な軋轢が生じ、N響からボイコットをされます。
小澤征爾さんは、たった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられました。
N響は、小澤征爾さんに内容証明を送りつけ、小澤征爾さんもNHKを契約不履行と名誉毀損で訴えるという事態になりました。
この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展しました。
浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、曽野綾子、谷川俊太郎、團伊玖磨、黛敏郎、三島由紀夫、などが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志ら若手音楽家約10名が、事件の真相調査に乗り出しました。
小澤征爾さんは、活動の場を日本フィルに移し、「小澤征爾の音楽を聴く会」で指揮をしました。
このようなことがあって、小澤征爾さんは、日本では音楽活動をしないと決めて、渡米しました。
「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」(ドキュメンタリーでの発言)
後年、「N響とのトラブルが刺激になってよく勉強した」とも述懐している
この事件の原因は、いろいろと言われていますが、結果的に小澤征爾さんが、「世界の小澤」となった発端であったと思います。
このことで、日本を飛び出して、世界で活躍することになったわけですから。
その後、32年の歳月を経て、1995年1月にNHK交響楽団と共演を果たしています。
小澤征爾さんの数々の偉業
あちらこちらで音楽監督に就任
1973年に38歳で名門ボストン交響楽団の音楽監督に就任しました。
そこでの30年近い活動を通じて「世界のオザワ」と呼ばれる存在となりました。
1998年には長野冬季五輪の音楽監督に就任しました。
2002年、日本人で初めて名門ウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」を指揮しました。その模様は世界65カ国に中継されました。
世界のオペラの最高峰である、ウィーン国立歌劇場でも2002年から2010年まで音楽監督を務めました。
1984年、斎藤氏に教えを受けた同門の演奏家らとともに、恩師の名を冠した「サイトウ・キネン・オーケストラ」を創設し、1992年からは長野県松本市で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現在のセイジ・オザワ 松本フェスティバル)」を毎年開催しています。
チャイコフスキー、ベルリオーズなどの演奏に秀でたほか、現代音楽の演奏にも取り組んでメシアン、武満徹らの厚い信頼を得ました。
音楽監督を務めた新日本フィルとの共演や「小澤征爾音楽塾」での後進の育成、音楽祭「東京のオペラの森」の音楽監督など、晩年まで精力的な活動を国内外で続けました。
数々の受賞歴
たくさんありますが、その一部を紹介します。
1972年 日本芸術院賞を受賞。
2003年 サントリー音楽賞を受賞。
2008年 世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受賞。
2011年 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。
2014年 モンブラン国際文化賞を受賞
「 努力は才能 」
— ꕤHaruꕤ୭*(イケりまクリスティ人) (@Mellow_Smile_32) February 9, 2024
「 努力できる才能 」
「 天才は居ない 」
「 努力は素晴らしい 」#小澤征爾 #小澤征爾さん #指揮者#サイトウキネンオーケストラ#SKO #マエストロ #conductor
「*ありがとうございました*」
ご冥福をお祈りします🙏🏻 ⟡.· pic.twitter.com/1LnhmZWKij
2015年 米国の芸術や文化の発展に貢献したとして、15年には日本人として初めて「ケネディ・センター名誉賞」を受賞した。
2016年 「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」のオペラ公演をライブ録音したアルバム「こどもと魔法」が米グラミー賞を受賞。
小澤征爾さんの訃報が…
— 👶🏻 (@hrmt1725) February 9, 2024
これが小澤さんの最後の指揮だったのかな。
この時に流された涙は忘れられません。
最後の最後まで音楽を愛し愛された偉大なお方。
ご冥福をお祈り致します。#小澤征爾 #SeijiOzawa pic.twitter.com/OH6UHGRJOr
小澤征爾さんの弟子であり、指揮者の佐渡裕さん(62)が、自身のインスタグラムで小澤征爾さんを偲びました。
小澤征爾さんのご冥福をお祈りします。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
小澤征爾さんの息子さんについても調べてみました。
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