小澤征爾が死亡(死去)した理由 と「世界の小澤」になった経緯

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世界的な指揮者で文化勲章受章者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが2月6日、東京都内の自宅で心不全のため死去されました。

88歳だったということです。

私が初めて小澤征爾さんのことを知ったのは、高校の音楽の授業の時でした。

誰かの代わりに急に指揮をすることになって、オーケストラの人が、試そうとして、わざと違う音を出したりしても、それを言い当てて、信頼を得て、大成功を収めた

というような話だったと思います。

すごい方がいらっしゃるのだなぁと衝撃を受けて、今でも覚えています。

小澤征爾さんに追悼の想いを込めて、記事を書かせていただきます。

この記事を読んで分かること
・小澤征爾さんが死亡された理由
・小澤征爾さんが「世界の小澤」になった経緯

この記事を書いた人
5人の息子を育てながら、中学校の数学の教員を30年間続けました。
退職後、2023年3月に64歳で、ブログを始めようと思いたち、4月10日から公開し始めました。
学生時代は、ピアノ、バイオリン、お琴など音楽系の習い事をしていましたが、現在は、40代から始めた社交ダンス、退職してから始めたヨガなど、身体を動かすことにハマっています。夫と2人暮らし。
母と義母が健在で、時々介護のようなことをしています。

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小澤征爾さんが死亡された理由

小澤征爾さんが死亡された理由は心不全

亡くなられた理由については、どの報道機関も「心不全」となっています。

心不全は、病気の名前ではありません。心臓になんらかの異常があり、機能低下によって、体に血液が行き渡らなくなった状態を言います。血液が行き渡らなくなると、内臓を含めた組織が徐々に 壊死えし して死に至ります。心不全に至るまでには、先に心筋 梗塞こうそく 、弁膜症、心筋症などの心臓病があるわけです。つまり、心機能の低下を言う「心不全」の裏側には、さまざまな本当の死因( げん 死因)があるわけです。心不全も呼吸不全も直接の死因ではありますが、その人の死のイメージをあいまいにする効果があるかもしれません。「あの方、僕の患者さんで、前立腺がんが転移して亡くなったけど、新聞を見たら死因は心不全になっていた」と知り合いの医師が話していました。死因が「心不全」とされるか、「前立腺がん」とされるかで、死のイメージが違ってはこないでしょうか。心不全は死因として使いやすいのか、肺がんなどの末期で死亡したケースで使われることがあります。つまり、心機能の低下を言う「心不全」の裏側には、さまざまな本当の死因( げん 死因)があるわけです。 引用元:リングドクター・富家孝の「死を想え」

というわけで、心不全とは、状態であり、本当の死因とは言えないかもしれませんが、それ以上の報道はされていないので、本当の死因はわかりません。

小澤征爾さんの病歴

小澤征爾さんは、病気と闘うことも多かったようです。

2006年に帯状疱疹(たいじょうほうしん)で一時活動を休止したことがあります。

2010年1月に食道がんと診断されて、食道全摘出手術を受けられました。

当時、小澤征爾さんは都内で記者会見を行い、次のように話されました。

毎年末に受けている人間ドックで食道がんが見つかりました。飲んだり食べたりしても大丈夫で、検査しなくては分からなかった。皆さんにも人間ドックをお勧めします

この会見は、ご本人が自身の口で説明したいと希望して行われました。

その後リハビリに励み、徐々に本来の指揮活動に復帰されていました。

2010年の12月から、2012年の1月にかけて、3度肺炎を発症しました。

その後2013年2月末まで1年間、指揮活動を中止すると発表しました。

2013年8月に指揮活動を再開しましたが、2015年7月30日に予定していたコンサートを体調不良で欠席されたようです。

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小澤征爾さんが「世界の小澤」になった経緯

生まれてから、世界的指揮者に才能を認められるまで

小澤征爾さんは、1935年、旧満州奉天(現中国・瀋陽)に生まれました。

幼少からピアノを始めましたが、ラグビーのけがでピアニストを断念しました。

桐朋学園短大指揮科で指揮者の、斎藤秀雄氏に指揮の基礎を学びました。

桐朋短大を卒業後に渡仏し、1959年ブザンソン国際青年指揮者コンクールで優勝しました。

その後、世界的な指揮者に才能を認められて指導を受けました。

名指揮者のカラヤン氏に師事、さらに指揮者・作曲家のバーンスタイン氏に招かれ、米ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就きました。

シカゴ交響楽団、カナダ・トロント交響楽団など著名なオーケストラに次々と招かれるようになりました。

N響事件

1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者として招かれて、活動を開始しますが、N響と小澤征爾さんの間に感情的な軋轢が生じ、N響からボイコットをされます。

小澤征爾さんは、たった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられました。

N響は、小澤征爾さんに内容証明を送りつけ、小澤征爾さんもNHKを契約不履行と名誉毀損で訴えるという事態になりました。

この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展しました。

浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、曽野綾子、谷川俊太郎、團伊玖磨、黛敏郎、三島由紀夫、などが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志ら若手音楽家約10名が、事件の真相調査に乗り出しました。

小澤征爾さんは、活動の場を日本フィルに移し、「小澤征爾の音楽を聴く会」で指揮をしました。

このようなことがあって、小澤征爾さんは、日本では音楽活動をしないと決めて、渡米しました。

「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」(ドキュメンタリーでの発言)

後年、「N響とのトラブルが刺激になってよく勉強した」とも述懐している

この事件の原因は、いろいろと言われていますが、結果的に小澤征爾さんが、「世界の小澤」となった発端であったと思います。

このことで、日本を飛び出して、世界で活躍することになったわけですから。

その後、32年の歳月を経て、1995年1月にNHK交響楽団と共演を果たしています。

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小澤征爾さんの数々の偉業

あちらこちらで音楽監督に就任

1973年に38歳で名門ボストン交響楽団の音楽監督に就任しました。

そこでの30年近い活動を通じて「世界のオザワ」と呼ばれる存在となりました。

1998年には長野冬季五輪の音楽監督に就任しました。

2002年、日本人で初めて名門ウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサートを指揮しました。その模様は世界65カ国に中継されました。

世界のオペラの最高峰である、ウィーン国立歌劇場でも2002年から2010年まで音楽監督を務めました。

1984年、斎藤氏に教えを受けた同門の演奏家らとともに、恩師の名を冠した「サイトウ・キネン・オーケストラ」を創設し、1992年からは長野県松本市で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現在のセイジ・オザワ 松本フェスティバル)」を毎年開催しています。

チャイコフスキーベルリオーズなどの演奏に秀でたほか、現代音楽の演奏にも取り組んでメシアン武満徹らの厚い信頼を得ました。

音楽監督を務めた新日本フィルとの共演や「小澤征爾音楽塾」での後進の育成、音楽祭「東京のオペラの森」の音楽監督など、晩年まで精力的な活動を国内外で続けました。

数々の受賞歴

たくさんありますが、その一部を紹介します。

1972年 日本芸術院賞を受賞。

2003年 サントリー音楽賞を受賞。

2008年 世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受賞。

2011年 高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。

2014年 モンブラン国際文化賞を受賞

2015年 米国の芸術や文化の発展に貢献したとして、15年には日本人として初めて「ケネディ・センター名誉賞」を受賞した。

2016年 「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」のオペラ公演をライブ録音したアルバム「こどもと魔法」が米グラミー賞を受賞。

小澤征爾さんの弟子であり、指揮者の佐渡裕さん(62)が、自身のインスタグラムで小澤征爾さんを偲びました。

小澤征爾さんのご冥福をお祈りします。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

小澤征爾さんの息子さんについても調べてみました。

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