昨日、ラジオからKANさんの「愛は勝つ」が流れてきました。
懐かしいなと思い、今どうしておられるのかなと思って調べてみたら、亡くなっていらっしゃることが分かりました。
知らなかったので、びっくりしました。
KANさんを偲び、KANさんについて調べてみることにしました。
この記事を読んで分かること
KANさんのプロフィール
KANさんの経歴
KANさんの死因
この記事を書いた人
5人の息子を育てながら、中学校の数学の教員を30年間続けました。
退職後、2023年3月に64歳で、ブログを始めようと思いたち、4月10日から公開し始めました。
学生時代は、ピアノ、バイオリン、お琴など音楽系の習い事をしていましたが、現在は、40代から始めた社交ダンス、退職してから始めたヨガなど、身体を動かすことにハマっています。夫と2人暮らし。
母と義母が健在で、時々介護のようなことをしています。
KANさんのプロフィール
出生名 | 木村 和(かん) |
---|---|
生誕 | 1962年9月24日 |
出身地 | 福岡県福岡市 |
死没 | 2023年11月12日(61歳没) |
学歴 | 法政大学社会学部 |
ジャンル | ポップス |
職業 | シンガーソングライター作曲家 |
担当楽器 | ボーカルピアノギター |
活動期間 | 1987年〜2023年 |
レーベル | ポリドール(1987年 – 1995年)マーキュリー(1996年 – 1997年)ワーナーミュージック(1997年 – 1999年)BMGファンハウス(2000年 – 2001年)zetima(2006年 – 2023年) |
事務所 | ジェイビィールーム( – 2022年) アップフロントクリエイト(2023年) |
公式サイ ト | KAN オフィシャルウェブサイト |
KANさんの芸名の由来ですが、ご自身は、本来は本名でのデビューを希望していたそうです。
けれども、「和」を「かん」と読ませることは稀であるため、読み間違えられやすいと懸念され、また、読み方に関する質問にその都度回答することが面倒だと思ったために、大文字でローマ字読みの芸名となったとのことです。
これは、今回調べてみて、初めて知りました。
ご本名だったんですね。
良い名前ですよね。
私も、知り合いに「かんちゃん」って呼んでいた人がいました。
その人の場合は、漢字が「環」で本当の呼び方は、「たまき」だったのですが、みんな「かんちゃん」って呼んでいました。
今、どうしてるかなぁって思い出しました。
KANさんの経歴
生い立ち
2人兄弟の次男。
1968年ヤマハ音楽教室に入室し、ピアノのレッスンを受ける。
ピアノ講師・中村順子氏に師事し、クラシックピアノを習い始める。
毎週日曜日に、田島バプテスト教会に通い讃美歌を歌う日々を過ごす。
1972年、4年生のときに福岡市団地対抗少年野球連盟のチームに入団。
1974年、6年生でレギュラーに昇格、副キャプテンを兼任。
1975年(昭和50年)、福岡市立友泉中学校に入学。独学でギターを弾き始め、ビートルズをコピーする。
1976年、中学2年生の秋に、高校受験を理由にクラシックピアノをやめる。
1978年(昭和53年)、福岡県立城南高等学校に入学。水泳部に所属。
1981年(昭和56年)、法政大学社会学部に入学。
デビュー
1987年(昭和62年)4月25日 ポリドールよりシングル「テレビの中に」および同名のアルバムでレコード・デビュー。
37周年おめでとう。ありがとうございます。 pic.twitter.com/JHFeAH10GM
— KAN_official (@_kimuraKAN) April 25, 2024
今年の4月25日のXの投稿です。
ご本人の子供の時の絵ですか?
本物???
1990年(平成2年)夏、5thアルバム『野球選手が夢だった。』の収録曲「愛は勝つ」」が、テレビ朝日『クイズおもしろTV』エンディング曲に採用されたが、あまり話題にならず、この時にはヒットに繋がらなかった。
1991年、フジテレビ系『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の第三期エンディングテーマに用いられ、「愛は勝つ」は大ヒットを遂げる。
シングルは200万枚を超えるセールスとなり、オリコンチャートイン52週のロングヒットを記録するなど、90年代を代表する曲となった。
1991年(平成3年)、「愛は勝つ」が同年末の第33回日本レコード大賞(ポップス・ロック部門大賞)を受賞。
また、第42回NHK紅白歌合戦にも出場。
同年2月、やまだかつてないWinkに作曲提供した「さよならだけどさよならじゃない」(作詞・山田邦子)もヒット、卒業ソングの定番曲ともなった。
同年、第29回ゴールデン・アロー賞音楽賞を受賞。
同年4月、彼が主題歌を務めるテレビドラマ「熱血!新入社員宣言」(TBS系)に出演し、俳優デビューも果たした。
1999年(平成11年)4月、1997年のコンサートツアーで共演したバイオリニストの早稲田桜子さんと結婚。
2023年11月12日に61歳で亡くなるまで、たくさんの作曲をし、精力的に音楽活動を行なった。
KANさんの死因
KANさんのKAN オフィシャルウェブサイトには、「御報告」として、次のように書かれてありました。
弊社所属アーティスト KAN(本名 木村 和)儀、かねてより病気療養中のところ、
令和5年11月12日午後6時29分に永眠いたしました。
享年61歳。
ここに生前のご厚誼を深謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます。
1987年にデビューし、36年の長きに渡りシンガーソングライターとして
活動してまいりました。
今年『メッケル憩室癌』と診断され、3月より療養生活に入り、
入退院を繰り返しながら活動再開に向けて治療に励んでいた10月には、
留学したこともある想い出の地フランス・パリを訪れ、最後まで復帰への想いは
途切れることはありませんでした。
今まで数多くの作品を創作することができましたこと、
これまでKANに関わってくださった皆様、応援してくださった皆様に
心より感謝申し上げます。
通夜及び告別式は近親者にて執り行いましたことを併せてご報告いたします。
令和5年11月17日
株式会社アップフロントクリエイト
「メッケル憩室がん」とは
小腸にまれにできるメッケル憩室と呼ばれる突起物にできるがん。
がんの中でも極めて症例が少ないとされる。
日本小児外科学会などによると、メッケル憩室は、腸の壁の一部が焼きもちが膨れるように外に飛び出て、袋状の突起物になったもの。
「メッケル憩室」とは
憩室と呼ばれる内臓の外側に飛び出た袋状の突起物が、小腸の壁の一部にできたもの。
出産の際に胎児と母体を結んでいる卵黄管が出産後に残り、吸収されずに残ってできる。
メッケル憩室のある人は、人口の1~2%程度。
男性に多く、ほとんどの人は無症状という。
「メッケル」は発見した19世紀ドイツの解剖学者の名に由来する。
2023年(令和5年)3月18日、「メッケル憩室癌」と診断されたことを公表し、治療に専念するため4月から行われる予定だったツアーを中止することを明らかにしました。
しかし、レギュラーを務める2本のラジオ番組は、本人が出演出来ない場合は代役を立てるなどして継続しました。
10月には、奥さんと共に、留学経験のあるフランス🇫🇷を訪れていました。
思うところあって、
— KAN_official (@_kimuraKAN) October 3, 2023
無理を承知で、行ってきます。
だいじょぶか、おれ!?#kimurakan pic.twitter.com/Uyz9il70KW
一夜明けたパリの朝です。
— KAN_official (@_kimuraKAN) October 5, 2023
「ただいま」って言えるオレって、
ちょっとなんかよくなくなくない?#kimurakan #パノラマなんちゃらモード pic.twitter.com/jksiMJnvWs
留学経験があったから、「ただいま」って言えるんですね。
フランス語で昼食のことを
— KAN_official (@_kimuraKAN) October 6, 2023
デジュネと言うんでしゅね。#kimurakan pic.twitter.com/xXjV2AIUJE
シャレ言ってる!
ごく稀にマレ地区。#kimurakan #Marais pic.twitter.com/8tASNA116o
— KAN_official (@_kimuraKAN) October 7, 2023
またまたシャレ!
フランス語で夕食のことは
— KAN_official (@_kimuraKAN) October 9, 2023
ディネーって言うんでぃねぇ。#TartaredeThon #PouletRoti#TarteTatin #kimurakan pic.twitter.com/txlOubsBao
またまたまた!親父ギャグっていうのかな?
予定どおり昨夕、
— KAN_official (@_kimuraKAN) October 11, 2023
楽しいパリ旅から
東京に戻ってまいりました。
だいじょぶでした、おれ!
多大な御心配をおかけした皆さま、
ありがとうござました。#kimurakan pic.twitter.com/ncThEOyhxQ
無事に行って来られて良かったですね。
最愛の奥様との良い思い出を作りに行かれたのでしょうか?
が、帰国後に体調を崩し、11月12日午後6時29分に死去されました。
まとめ
KANさんは、2023年11月12日に、61歳という若さでお亡くなりになりました。
死因は、「メッケル憩室がん」でした。
最後まで復帰への思いはありましたが、かないませんでした。
ご冥福をお祈りします。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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