17歳で上京、資生堂のCMでデビュー以来、第一線を走り続けている俳優の草刈正雄さん(71)。
草刈正雄さんは、昔から、カッコよくて素敵だったけれど、年を重ねてさらに円熟味を増し、存在感のある俳優さんになられたなと思っていました。
最近では、特にNHKの朝ドラ「なつぞら」でのおじいさんの役が、「アルプスの少女ハイジ」のおじいさんみたいで、味があって好きでした。
そんな草刈正雄さんが出演した、NHK『ファミリーヒストリー』(8月14日放送)が感動ものだったということを後から知り、気になったので、調べてみました。
異次元の男前 #草刈正雄 米軍人父。その姉 ジャニタ伯母さん(97y)に会いに行く。罪の意識「あなたに触れることができた」認知機能高い。草刈正雄の母 スエ子さん。アイノコ 貧困と差別から息子を守った。#紅欄 さんが渡米を勧めた #ファミリーヒストリー pic.twitter.com/36B7nnq9dn
— Ryu Blockchain HODL (@ryudai94) February 11, 2024
草刈正雄さん只今出演中!【総合】午後4:45 ファミリーヒストリー 草刈正雄特別編~アメリカへ 決意の旅路~
— NHKアーカイブス (@nhk_archives) February 11, 2024
過去の出演番組はこちら
「大河ドラマ 真田丸」ほかhttps://t.co/lfYmkQQgpC#草刈正雄 #ファミリーヒストリー
※予定変更・地域で別番組の場合あり
この記事を読んで分かること
・草刈正雄さんの父、母はどんな人だったのか?
・草刈正雄さんの『ファミリーヒストリー』
・草刈正雄さんの『ファミリーヒストリー』特別編
この記事を書いた人
5人の息子を育てながら、中学校の数学の教員を30年間続けました。
退職後、2023年3月に64歳で、ブログを始めようと思いたち、4月10日から公開し始めました。
学生時代は、ピアノ、バイオリン、お琴など音楽系の習い事をしていましたが、現在は、40代から始めた社交ダンス、退職してから始めたヨガなど、身体を動かすことにハマっています。夫と2人暮らし。
母と義母が健在で、時々介護のようなことをしています。
草刈正雄さんの父
1952年 草刈正雄さんのお父さん、当時21歳のロバート・トーラー氏は、アメリカ空軍・第1航空郵便隊第24分遣隊の二等軍曹で、福岡の築城基地に配属されていました。
一方、その頃、草刈正雄さんのお母さん、19歳のスエ子さんは、貧しい家庭に生まれながらも、努力の末にバスの車掌という職を手にしていました。
そんな2人が出会って、息子の草刈正雄さんが生まれました。
お母さんのスエ子さんは、草刈正雄さんに「お父さんは、朝鮮戦争で戦死した」と言い聞かせていました。
スエ子さんは「父親の写真は全部焼いた」とも話していたそうです。
なので、草刈正雄さんは、父親の顔を全く知りませんでした。
中学生時代に「お前の親父は生きてるぞ」と教えられたことがあったようですが、「生きてるのか。おふくろは置いていかれたんだ。なるほどな」と思ったぐらいで、会いたいという気持ちはあんまり湧かなかったそうです。
けれども、お母さんと2人で生活していると、やっぱり厳しいことも時々あるので、そういう場面では、「親父が生きてたら、もうちょっといい生活ができたんじゃないか」と、ふと考えることはあったそうです。
お母さんと小倉で暮らしていたけれど、「もしも一緒にアメリカに行っていたとしたら、どういった生活が待っていたんだろう。もう少し暮らしぶりも変わってたんじゃないかな」と考えることはあったようです。
草刈正雄さんの母が語る父
お母さんのスエ子さんは、「ロバート・トーラー」というお父様の名前や出会いについては教えてくれています。
人が1人通るのがやっとの細い橋で、2人が「どうぞ、どうぞ」と譲り合ったことが交際につながった
という、とてもロマンティックな馴れ初めでした。
それとお父さんのことは、よく褒めていました。
「本をたくさん読んでいる人だった」とか、要するに勉強家だったみたいなことです。
実際に、お父さんがそういう人だったのかどうかは分かりませんが、おそらく草刈正雄さんの教育のために、そうやって話していたのでしょう。
「父親みたいに、おまえも本を読みなさい。勉強しなさい」ということを言いたかったのかもしれません。
叱るときにも、お父さんのことを引き合いに出すことがあったそうです。
草刈正雄さんがちょっとヤンチャをやると「お父さんは、そういう人じゃなかった」と言われたこともあったようです。
どんな人か知るよしもなかったけれど、草刈正雄さんは、「そうなんだ」と自分とお父さんをダブらせてみたりしたそうです。
ロバートさんを、決して悪く言うことのないお母さんでした。
ルックスについても、ベタ褒めしていたそうです。
「あんたなんて問題にならないわ」「あんたよりハンサムだった」と、お父さんのことを褒めているのを聞くたびに、草刈正雄さんは、ホッとしていました。
『ファミリーヒストリー』からのオファー
1回目のオファー
『ファミリーヒストリー』が番組としてスタートして間もない頃、いまから、14年か15年くらい前(2009年?)に、草刈正雄さんにオファーがあったそうです。
草刈正雄さんが「どうしようかな」と考えていたところ、お母さんのスエ子さんが一言「やめなさい」とおっしゃったそうです。
お母さんは2010年に77歳で亡くなっているのですが、当時はまだお元気でした。
お母さんとしては、仮に草刈正雄さんのお父さんのことがわかったとしても、アメリカで暮らすあちらの家族の方々に迷惑が掛かると思われたようです。
それと、名前の綴りが壁になったのだそうです。
スペルはトーラか、トーラーなのか。草刈正雄さんは、お母さんから「ロバート・トーラ」だとは聞いていたけれど、スペルは知りませんでした。
スペルについて番組のほうで多少は調べていたようなんですが、スペルがわからないと、調査をするのは非常に大変だということでした。
なので、お母さんの「やめなさい」とお父さんの名前のスペル、その2つの理由で断ってしまったそうです。
2回目のオファー
最近、2回目のオファーがあり、お母さんのスエ子さんは亡くなっていましたし、娘の紅蘭さんと麻有さんも祖父のことを知りたかったのか「パパ、やれば」と言って背中を押してくれました。
それで「じゃあ、やってみましょうか」ということになりました。
今回、十数年越しのオファーが実ったのです。
でも、草刈正雄さんは「おそらく見つけるのは難しいだろうな」と思っていたそうです。
「父親は見つからなかった」で終わると思い込んでいたのです。
NHK『ファミリーヒストリー』
取材
取材は半年に及んだそうです
「父の名前はロバート・トーラ」
「朝鮮戦争で戦死」
「祖父は郵便局員」
この3つの情報をもとに、トーラ姓とトーラー姓の方々に連絡を取ったそうです。
と言っても、TORA、TOLA、TORRA、TOLLAなど、スペルの違うトーラ姓が8827件。
トーラー姓が18万3864件。
合わせて、全米19万2691件を精査する事態になっていたのだそうです。
可能性のある人には、メールや手紙で連絡をしたそうです。
この取材力は、すごいですね。
さすが!NHK!
スタジオ収録
スタジオ収録当日(2023年6月30日)まで、草刈正雄さんは、調査の進み具合について、全く知らされていなかったそうです。
調査開始から5ヶ月後、ノースカロライナ州グリーンズボロに住む74歳のジェイ・カラハムさんから「ロバート・トーラーは自分の叔父ではないか」という連絡が来ます。
DNA検査でジェイさんと草刈正雄さんが97%の確率で従兄弟同士だと判明します。
ジェイさんの妻は、草刈正雄さんの写真を見て、「これは夫の親戚に違いないと思いました。あごの角度、目、耳の形。すべて夫にそっくりでした」と確信していたようです。
ジェイさんの母、ロバートさんの姉で、草刈正雄さんの伯母にあたる97歳のジャニタ・カラハムさんが登場しました。
草刈正雄さんは、生まれて初めて20代の軍服姿のお父さんの写真を見ました。
ジャニタさんによると
21歳のロバート・トーラー氏は、アメリカ空軍の二等軍曹で、福岡の築城基地に配属されていました。
一方、19歳のスエ子さんは、バスの車掌をしていました。
2人は、偶然に出会い、同棲を始めます。
そして草刈正雄さんを身ごもり、2人でアメリカに行くつもりでしたが、叶いませんでした。
実は、日本から帰国したロバートさんは、神経衰弱になっていました。
規律の厳しいトーラー家の家族に、結婚前に日本人女性との間に子供が出来たことを言い出せなかったのです。
そんな弟に、事情を知らない姉のジャニタさんは、
「陸軍に異動したのだからドイツに行きなさい」
と言いました。
草刈正雄さんが生まれた翌年の1953年、スエ子さんはアメリカにいるはずのロバートさんに、幼い草刈正雄さんの写真を添えて手紙を送ります。
しかし、ロバートさん本人は、空軍から陸軍に編入して西ドイツにいました。
本人不在のなか、ジャニタさん、お姉さん、お母さんがその手紙を読み、ほかの家族には明かすことなく2023年までに至ったということです。
このことを告白した伯母のジャニタさんは、家族を混乱させたくないし、どうにもできなくて、日本にいた草刈正雄さんとスエ子さんのことを、ずっと黙っていたわけです。
そして、ずっと後悔に苛まれてきたのでした。
姉のマーガレットが手紙を書き、わずかなお金と共にスエ子さんに送りました。
それで、スエ子さんは全てを悟り、草刈正雄さんを1人で育てる覚悟を決めたのでした。
ロバートさんは、
ヘルガさんという女性と結婚して除隊しました。
ノースカロライナに戻って婦人服販売などをした後、2013年に83歳で亡くなっています。
最後まで草刈さんとスエ子さんのことを打ち明けませんでした。
これらの事実を初めて知らされて、「父親は見つからなかった」で終わると思い込んでいた草刈正雄さんは、衝撃を受けたと思います。
言葉が出てきませんでした。
草刈正雄さんは、涙が止まらないようでした。
おふくろのことやふたりで暮らしていた頃を思い出しますから、どうしてもこみ上げてくるものはありました。
アメリカでの取材も、知るよしもなかったことが次々とわかってね。
淡々と見ていたつもりでしたけど、昔からモヤモヤしていたものがスッキリしましたし、おふくろと親父が愛し合っていたこと、トーラー家の方々が僕ら母子を気にかけてくれていたこともわかりましたしね。
でも、一番こみ上げたのはジャニタさんの手紙でした。
親愛なる甥へ。あなたを見つけられたことが、私にとってどれだけ嬉しいか言葉にならないほどです。70年間あなたのことをずっと思い続け心配してきました。私は今97歳です。あなたの素晴らしいお母様があなたを立派に育ててくれたことを知り、心から嬉しく思っています。どうか どうか私たちに会いに来てください。あなたのことを思って涙を流す日々は、もう終わり。これからは笑顔だけです。あなたの叔母ジャニタより
草刈正雄さんは、その当時の心情を理解するというよりは、あくまで事実として受け止めました。
そして、従兄弟のジェイさんも伯母のジャニタさんも、閑静な住宅地の立派な家に暮らしていたこと、人柄も温和な雰囲気が漂っていたことに、ホッとしていました。
放送後
番組は大きな反響を呼びました。
そして、「ギャラクシー賞」テレビ部門の月間賞を受賞しました。
『ファミリーヒストリー』特別編
アメリカ行きのオファー
『ファミリーヒストリー』の収録が終わって楽屋に戻ったら、プロデューサーとディレクターの方たちがやってこられて「草刈さん、アメリカに行ってくれませんか」と言ってきたそうです。
けれども、アメリカ行きをためらった「割り切れない気持ち」があったそうなんです。
草刈正雄さんのお母さんもお父さんも、もう亡くなっているのに、そこでなにを話したらいいんだろうという気持ちがあったそうです。
けれども、「どうか どうか 私たちに会いに来てください」と綴られた97歳のジャニタさんからの手紙がアメリカ訪問を決心させたそうです。
アメリカ訪問で父方の親族との初対面
スタジオ収録の1カ月後の7月13日、草刈正雄さんは、父方の親族に会うためにアメリカ・ノースカロライナのグリーンズボロを訪れました。
草刈さんが伯母のジャニタさんらと初対面した様子が、『特別編』として12月29日に放送されました。
いとこのジェイさん家族との初対面
ジェイさんは、オンラインで日本の国旗を注文して、家の前にアメリカ国旗と共に掲げていました。
「私たちはあなたを100%家族として迎え入れ、あなたの仲間を100%歓迎します」というメッセージでした。
日本からシカゴを経由して、およそ15時間の飛行機移動をした草刈正雄さんは、もともと飛行機が苦手で、相当疲れているにも関わらず一睡も出来なかったそうです。
初対面のジェイさんと奥さんのデボラさんは、草刈正雄さんを歓迎してくれました。
そして、「すみません。こんな顔して英語が全くしゃべれないもので」
という草刈正雄さんに対して、
「僕も日本語が全くしゃべれません」
とユーモアたっぷりに答えるジェイさん。
「でも、私たちはひとつです」
それから、ジェイさんは、この日のためにある準備をしていました。
「真田丸を見ました。DVDセットを買いましたよ」
「夫婦で一晩に3エピソードずつ見て、全部見終わりました」
戦国物を見てもらって、草刈正雄さんはとても嬉しそうでした。
「叔父は、背が高かったし、ハンサムだった」
「あなたは、叔父の長所ばかりを受け継いだようですね」
父の墓参り
草刈正雄さんは、今回の旅でお父さんの墓参りをするかどうかを、ギリギリまで迷っていたというのです。
共同墓地の中にある小さなお墓を訪ねました。
お墓の前に立った草刈正雄さんは、複雑な思いに苛まれていました。
女手一つで育ててくれた母の姿が頭をよぎります。
旦那さんがアメリカに帰っているから行くところがないスエ子さんは、2階のひと部屋を借りて、家族にも内緒で草刈正雄さんを出産したのです。
外国人の親を持つ子供やその家族には偏見があった時代、親が仕事につけず、子供を児童養護施設へ預けることも多くありました。
スエ子さんは、親族に迷惑をかけまいと、ふるさとを離れ草刈正雄さんのために働きます。
日中は倉庫で値札付け、残りの時間で家政婦の仕事を掛け持ちします。
当時、スエ子さんと草刈正雄さんは、一軒家の2階の4畳半を間借りして暮らしていました。
スエ子さんは、草刈正雄さんが周囲から色眼鏡で見られぬよう、息子の身だしなみに気をつかっていたといいます。
世間に対して恥ずかしくないような生活を維持させていくのは、並大抵の事ではなかったと思われます。
息子のために偏見と戦ったスエ子さんは、平成22年、78年の生涯を閉じたのです。
そんな母の姿を思い、父の墓前で、何も言葉が出てこなかったのでしょう。
伯母ジャニタさんとの初対面
家の前には、日本国旗が掲げてありました。
この国旗には、伯母の強い思いが込められていました。
草刈正雄さんと会ったジャニタさんは、真っ先に「本当に私を許してくれるの?」と言っていました。
ジャニタさんは、草刈正雄さんとスエ子さんを思い、自分を責め続けてきたということです。
草刈正雄さんは、ジャニタさんに娘2人と孫の写真を見せました。
幸せそうな家族の写真を見て、ジャニタさんは、安心したようでした。
いとこたちとの初対面
ジャニタさん。
ジャニタさんの息子で草刈正雄さんの従兄弟にあたるジェイさん。
ジャニタさんの姉でスエ子さんに手紙をかいたマーガレットさんの娘、マーガレットさん。
マーガレットさんの息子、ウイリアムさん。
ロバートの兄の娘、ダイアナさん。
あちらのご家族が勢揃いして、草刈正雄さんにお会いして「ロバートさんとよく似ている」といった反応をしていました。
草刈正雄さんは、次のようなことを伝えました。
母が、マーガレットさんには本当に感謝しておりました。
定期的に手紙をいただいていて、いつもいつもお手紙を書いてくれました。
本当にありがとう。
幼少期に、アメリカから定期的に手紙と仕送りが届いた記憶がありました。
そして、あちらのご家族からの、
あなたのお母様は本当に強い人です。
という、母スエ子さんへの尊敬と感謝の言葉を噛み締めるように聞きました。
草刈正雄さんは、7月のこの日に不思議な縁を感じていました。
今年は母の13回忌で、亡くなったのが今月の7月なのだから、母がものすごく導いてくれたんじゃないか。
日本とアメリカの2つの家族の心を近づけてくれたのは、亡き母ではないかと思えて仕方ありませんでした。
ジャニタさんに渡した手紙
草刈正雄さんは、ジャニタさんに手紙を手渡してから帰りました。
目の前で読まれるのは、照れ臭かったのか、帰ってから読むように頼みました。
ジャニタさん、あなたを見つけられて本当によかった。
母が亡くなり、番組に出演するべきかどうか悩んでいました。
でもどうしても父のことが知りたかった。
写真でいいから顔が見たかった。
そしてあなたたち家族のことが知りたかった
VTRを見たときには言葉を失いました。
でもあなたたち家族に会えて本当に嬉しかった。
いつまでもお体を大切に。
あなたの甥 正雄より
ジャニタさんは、「あなたの甥と書いてあるわ。とてもうれしい!あなたの甥ですって!」と涙を流して喜んでいました。
草刈正雄さんと会い、心の重りがなくなったジャニタさんでした。
一族の写真が飾られたトーラー家の壁に、母スエ子さんと草刈正雄さんの写真が加わりました。
とても素敵なご家族でよかったな、ということにホッとした草刈正雄さんでした。
引用元:文春オンライン
秋川リサさんの時もそうでしたけれど、昔は、「合いの子」とか「混血」と言って差別されたり、母一人ということで、経済的にも大変でした。
そんな中、養護施設に預ける人も多いのに、身を粉にして働いて、自分の手元で草刈正雄さんを育てようとした母スエ子さんは、本当に強くて素晴らしい方ですね。
何より、お父さんの悪口を絶対に言わなかったところが、本当に賢くて素敵な人です。
「あんたなんか生まれてこなければよかった」とか、「あんたのせいで、私はこんなに苦労してるんだ」とか言う人もいる中で、母スエ子さんは、本当に立派で、草刈正雄さんは、幸せですね。
草刈正雄さんの「ファミリーヒストリー」 ものすごく感動しました。
ありがとうございました。
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